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デスボイスを考察する会(1人)

物好きがデスボイスを考えてます。

デスボイスの可能性(喉的でなく)


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最近思ってる話です。

 

 

今とても、12平均律に対する疑念を抱えています。

確かに便利ですし、これは美しいと思いますが

この価値観も現代社会に育まれたものです。

決して悪いという事ではなく、これに囚われすぎることは良いのかが問題です。

 

少し前、「デスボイスはスケールから外れてるボーカルラインをやっているのでは」と思いまして。

基本的に、まぁかっちりハマってなくともある程度楽器隊との親和性がボーカルラインもあるはずで、普通。

なのにこのデスボイスというものは、その調和を乱す、あるいは打ち砕くような

やりたい放題なわけです、そこに音高の所在はありますけどまぁわからない人が多数かなと。

なので、音楽理論に沿うのであれば、沿って曲が作り上げられているなら

デスボイスだろうとなんだろうと、そこに準拠すべきではと思っていました。

 

しかしですね、疑うことを出来ないでいたのが悪い点でしたね。

長年使われている、主流と言って差し支えない音階の概念ですね。

これは与えられたものではないかと思っています、まだ本とかあんま読んでないんですが...

人間の脳における快感なんてのはなかなかどうも、脳波を見てわかるものでもないようで。

クラシックが良い というのも俗説なのかなとか、あるいは学習であります。

 

日々、まぁ僕は日本人で且つ他国の事情に詳しくないので日本目線ですが

クラシックの評価は世間的に高いと思います。

例えば、トランペットとギター やっていて、どちらの方が親世代からの評価を得られるかですね。

もちろん個人にもよるかと思いますが、前者に偏るのではないかなと思います。

もっと良い例ありますね... ピアノを習わせる習慣とかですね。

何故数ある楽器でピアノなのか、まぁ比較的身近なのはありますね。

でも、ピアノが身近なのですよね... あのきっちり調律をした、淀みのないあの楽器です。

テレビで見るピアノ弾きは正装だったり優雅だったり、とても好印象だったりと...

考えて見ると、結構偏った環境におかれてると思いました。

 

こうなれば、それはもう「ピアノを弾けることは評価されること」という理解は世間的に普及

というか、子供はそう学習すると思います。

その時点で、音に対する良し悪しのあらゆる側面が固定化されると思います。

また。絶対音感(結局は相対音感の具合)と評価されることもあります。

 

これ結構おかしくないでしょうか?

 

我々の、一般的な音楽の選択肢はもはや絞られまくってます。

12平均律に準拠し、正確さを求められます、それは与えられたものさしでしかないんです。

が、これを普遍的と捉えているのが問題、でしたね自戒です。

 

もちろんですね、わかりやすい共通のものさしは大切です。

僕もよくA5とかどうとか言います、伝わるから。

ただそれはそれまでで良いはずで、伝えるためのツールではないのかなと。

別にこれらは否定ではないです、固定概念としているのが良くないのではと思うのです。

 

ここでタイトルの回収ですが、デスボイスの可能性です。

デスボイスは基音がぶれぶれです、実質の音高は判別できないと思います。

また、実際ボーカルラインに規定の音高の概念はあんまり強くありません。

例えば、A氏の曲をB氏がカバーしても、音高は大抵B氏の歌いやすい所になるでしょう。

色んな音色が評価され、色んな音高を良しとされています。

これらは個々人の「楽な声の出し方」だと思うのですね、デスボイス歌唱時における。

これって結構、脱西洋音楽の足掛かりになるのでは?と。

まぁでも発声ベースや輸入元は変わらないんですけどね... 逆に言えば新たな東西融合と言えるのかも。

 

と、思いました、あんまり調べてはない段階です。

夢が溢れるなぁと...

岩崎先生はここら辺に魅力を感じたのかもしれないと思うと、すごいです。

 

音高の概念は今や根付いていますが、そんなものがなかった時から音楽はあるんですよね。

今やなんでも12平均律に準拠して書き起こされていますが、それは不正確ですよね、そこにピッチ感みたいな概念はなかった。

音は果てない世界で、先が見えないけど考えを巡らせるのは楽しいですね。